中国現地法人と
危機を乗り越えて

株式会社アート商会・アンドー

和雑貨やトレンドアクセサリーなどの企画、生産を行う株式会社アート商会・アンドー。中国に4社の現地法人を設立し、最盛期には多くの雑貨店を中国国内に展開していたが、小売りから撤退し、現地スタッフとともに日本国内の大手100円ショップなどへの商品供給で業績を伸ばしている。「何度も倒産危機を乗り越えてきた」という安藤隆光取締役会長に聞いた。

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3度のどん底経験から新規市場へ

安藤会長が中国市場に関心を持ったのは、1997年に最初のどん底を味わったときだった。山一証券が倒産し、金融危機に突入した時で、得意先の問屋が十数件自己破産し、億単位の負債を抱えた。生涯の恩人だという取引先の社長が手を差し伸べてくれたことで窮地を免れ、再び成長軌道に乗ったが、より広い市場を探すようになった。

2007年に大手スーパーの中国進出にあわせ、アクセサリー雑貨の店舗を展開する現地法人を設立。1年間で20店舗を開店したが、勢いが出たときに資金が尽きた。「まだ“カワイイ”ファッションが中国に浸透し始めたころだったので、どんどん店舗を増やすことができましたが、中国での滞在は通訳同伴でホテル住まいにタクシー移動。それが全て自己資金でしたから。それではダメだと、まずは自分が中国語を話せるようにと55歳で3年間夜学に通って中国語を習得し、1人でバスを使って事務所に行き、従業員とともに寮に泊まり、そこで食事をする。そういった生活を始めてやっと軌道に乗り始めました」と振り返る。

最盛期には、中国国内に38店舗を展開。だが、ちょうどそのころ尖閣問題に端を発した日本製品の不買運動が始まった。安藤会長は「陳列什器や看板に『日本TOKYO』と表示していた売り場は破壊されてしまい、不買運動で売り上げも激減しました。ここが、億の負債を抱えたときに続く第2のどん底でしたね。扱う商材をファッション雑貨まで増やすなど、現地スタッフと頑張って持ち直しましたが、その後すぐに中国全土で急速に普及したインターネットにより実店舗の苦戦が始まりました」とと語る。

起死回生に、原宿・竹下通りにパイロットショップを出店。だが、高額な家賃のわりに購入者は小中学生やインバウンド客と客単価が低く、第3のどん底へ。家賃と販売員の給与を出すのがやっと、という状況だったが、そのパイロットショップが返り咲きのきっかけになった。「ショップを訪問見学した大手100円ショップのバイヤーが、『この商品は面白い』と大量に発注。どん底から脱出できました。そこから小売りではなく、卸売りへと完全にシフトするため、中国の会社も店舗展開から撤退し、自社工場で、日本で企画した商品をOEMやPBで生産することに徹しました。新規市場へのビジネス第1章の始まりです」と話す。

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苦楽を共にした中国人スタッフが現地での力に

事業転換から4年でグループ会社を含めた年商が10ケタを達成。今後予定する第2章は、中国に新たな自社工場を設立し、自給率を40%に上げるのが目標だ。設立当初から苦楽を共にした中国人スタッフが、現在も現地法人を支えている。安藤会長は「中国でのビジネスは、中国ならではの仕組みを分かっていないとうまくいかない。そういったリサーチや情報をきちんと現地のスタッフが押さえてくれているのが強み。視察に行っても表面だけでなく、調査したうえでのアドバイスをくれる。日本側が頻繁なマーケットリサーチでトレンドを押さえた商品を企画しても、それをしっかりと中国側にフィードバックしないと具現化できないし、商品として形になったあとも適切な品質管理が必要だったりする。そういったサイクルがうまくいっているのが特長です」といい「一緒に頑張ってくれたスタッフに人種は関係ない」と胸を張る。

どん底を経験するたびに立ち上がってきた安藤会長は、スピード感が強みだと自負する。「全て速さが基本。考える前に行動する。結果を見て、そこから考えることが多い」と語る。「第3章は自社物流、第4章は日本、アメリカ、イタリア等の展示会に出展。自社ブランドを立ち上げて高額商品も手がけていきたいですね。それに必要なのは会社と社員の勢い。中国のスタッフにもビジョンを共有していますが、目標に向かって一生懸命進むことを続けていきたい。第3章を始めるころには、業界トップになっていたいですね」と意気込む。

株式会社アート商会・アンドー

安藤隆光

1950年、東京都出身。明治大学を卒業後、名古屋栄の問屋に修業就職。1977年に家業であるアート商会に入社。1979年に法人化し、5代目として代表取締役社長に。2014年に取締役会長に就任。2007年には中国で現地法人を設立。

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